子どもの語る力に魅せられて早、15年がたち16年目の活動です。
年間約6000人の子どもたちと話をしていると、何とも言えない魅力を感じます。
かれらの見えている世界は、私たちが見えている世界と違うことも多いです。
身長110センチの子どもから見える私たち「おとな」はどんなふうに見えるのでしょうか?
私たちの手の大きさは、幼児期の子どもたちには、どれほど大きく感じるのでしょうか?
思春期の子どもたちには、私たち「おとな」のやっていることと言っていることの矛盾が
どんなふうに見えているのでしょうか?
「わが子に(担任をしている子どもたち)に、どんなおとなになってほしいと
望んでいますか?」という質問を保護者や教職員の方々にぶつけてみるとさまざまです。
・メリハリのつけられる人間になってほしい
・人の気持ちがわかる人になってほしい
・自分で何でもできる人になってほしい
・人の痛みがわかる人になってほしい
・犯罪を犯さない人間になってほしい
・思いやりのある人間になってほしい
・きちんとあいさつのできる人になってほしい
・コミュニケーションが上手な人間になってほしい
・健康でいてほしい
・自立したおとなになってほしい
・きちんと働ける人間になってほしい
・グローバルな人間になってほしい などなど たくさんの希望が出てきます。
私たち「おとな」は、子どもたちに望むだけでなく
子どもたちがなりたい人間になれるために、どんな「おとなの義務」を果たせているのでしょうか?
人に望むだけ望んで
自分は何も動かない、自分を変化させようとしないのは
宿題もせずに遊びほうけているのと同じですよね
私たちは子どもたちに「宿題を済ませてから、遊びなさい」と言っていませんか?
子どもには我慢をしろ!と言いながら、自分は抑えきれない感情を、弱い立場の子どもに叩いてぶつけるってどういうこと
そのくらいのことは自分でしなさい!って、わずか数年しか生きていない子どもには言うのに、自分は「わたしはできませんから」「そんなの苦手ですから」と開きなおるのはどういうこと
「うちの子、何回言ってもわからないんです」と何度も同じやり方しかしていないで文句言っているのはどういうこと
子どもたちが自由に遊びほうけるのは、人間が生きていくのにどうしても必要な時間であり、体を成長させるのにどうしても必要なことなのに、スポーツで勝負させることで遊ばせてあげている気持ちになって、自分たちだけいい気分になっている、ってどういうこと? 人の気持ちを考えろって言っているのに、自分らは自分の気持ちや自分の爽快感だけを優先させるってどういうこと?
いじめはダメだよ!
弱い者いじめはダメだよ!
言い訳するな!と言っているのに
自分たちは、国債を次に大人になる人たちに押し付けて、自分たちの豊かさは手放したくないって
どういうこと? 言い訳言えるの? 言い訳さえできたら何をやってもいいの?
どんなに苦しかろうが、つらかろうが、小さな人たちにはやせ我慢をしてみせてでも
先行きの不安をぶつけないのが、おとなのカッコよさじゃないの?
どうしても避けては通れない難題があるときには、
先に小さな人たちを通してあげるのが おとなじゃないの?
せめて、難題を解決してあげられなかったことを謝るのがおとなじゃないの?
おとなの勝手さに気づきながらも、「結構、一生懸命やってくれているし」と
大目に見ている子どもたちです。
時折、それっておかしいじゃん!!と意思表明をしてくれる子どもに
「反抗期呼ばわり」して「おとなにそんな口のきき方をするなんて100年早い!!」なんて
一生口きくなと言わんばかりの口封じって、公平なことなの?
きっと子どもだから見えるものや、感じるものがあるはずなんです。
子どもの目や耳や口を、おとなの大きな手で塞がないで
さあ・・・あなたの大きな手を、雄弁な口を、そして立派な耳を、
子どもがおおらかに生きていけるようにするために使ってください。
子どもに安心感を与えるような言葉を発信するために、その雄弁さを使ってください。
子どもが何を考え、何に困っているのかを聴くために、立派な耳を使ってください。
おとなたちよ、宿題をしてから遊びましょうね
やることはやってから、人の要求しましょう……。