2011年06月12日

いじめは立派な・・・・・・・

車に乗って、山道を気持ちよく走り抜けていたら
道端に等間隔に新しい立て看板がかかっていました。

新品の立て看板に書かれていた言葉は
「いじめは立派な暴力です」でした。

確かに、確かに、そうなんでしょうが・・・・・・?!?
なんだか 割り切れない?!? 

だって・・・・・・・


私たちがCAPプログラムを通して、子どもたちの日常生活の話を聴いて
感じていることは、「子どもだから」という理由でよく叩かれたり、蹴られたり、
どやされていたりしています。

さまざまな理由をつけては、叩かれているし、蹴られているし、どやされています。
子どものため
将来のため
教育のため
しつけのため
世の中の厳しさを教えるため 
・・・・・・と暴力を受けています。

実際に子どもが虐待で命を落としたケースの大半が
教育のためだった
しつけのためだった
世の中の厳しさを教えるためだった
・・・・・・と保護者はいっています。

これがおとな同士だったら、そんなに簡単に叩いたりいませんよね?

もしも、職場や隣近所の付き合いの中で
ぶしつけな人間がいたからと言って
叩きませんよね? ましてや、蹴ったりしないでしょ?
ほとんどの人たちは、どやしたいくらいの気持ちを抑え込むでしょ?


だけど、子どもにも平気でやるんです。
それも、やらばければならないくらいの気持ちで((+_+))

よくおとなは「人の気持ちになって考えなさい」と言います。
じゃあ、「人(子ども)の気持ちになって考えてみてください!!」

何か怖いことが起こったときや、いやなときには、保護者が守ってくれるんだと
思えるから、子どもは成長することができます(アタッチメント理論より)。自分を守ってくれるはずの人から
大きな手で、大きな声で、叩かれる瞬間の自分の小ささをみじめに感じる瞬間を考えてみて。
蹴られて身体を支えようとしても、足元から崩れて転がっていって、
小さな石ころみたいに自分を感じる瞬間の子どもの気持ちを考えてみて。

子どもが叩かれたり、蹴られたり、どやされたりしている「その瞬間」に感じる
みじめさ、己の小ささ、無力さ、怖さを体にしみこませている行為。
それが体罰なんですよ。
体罰は百害あって一利なし
残念ながら。 

保護者の気持ちは痛いほどわかります。
ただ、どうあがいても、
人の痛みを想像できる共感性が育つことを阻んでしまう行為であり
道徳心や郷土愛や、倫理観などの誰かの役に立ちたい気持ちや、誰かを
支えることが自分にはできるという自信を阻む行為なんです。
コミュニケーション力も奪います。究極、暴力が解決する手段だと
学びますから。

もし、新しい立て看板を作るなら、
「体罰は立派な暴力です」と書いてください。
暴力はパワーゲームです。強いものから弱いものに連鎖するんです。だから
体罰をなくせば、おのずといじめもなくなります。
自分らの行為は正当化して、わずか10数年しか生きていない子どもには
言及するのはおかしな話です。襟を正すなら、おとなからのはず!

子どもたちは、よりよく育ちたい欲求をどの子も持って生まれてきます。
温かさと、毅然とした態度で、接することを望んでいます。
あまあまにしてほしいなんて、子どもたちも思っているわけではありません。

ある中学生が言っていました。
動じないでほしいんだよね~、と。

私たちが落ち着かなくっちゃ!!ですね face15



Posted by にじ at 07:59│Comments(0)
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